犬の脚の万年筆

犬が前脚の爪でがりがりと地面に刻み込む日記です

侘びしさと錆びしさ

誰もいない夜の公園で、風見鶏が風に煽られクルクルまわっていた。

なんとも感慨深い情景だ。

 

無声の闇中を染めていく、カラカラとした回転音

 

この感慨の一部はいわゆる「ワビサビ」なのだろう

 

古池や蛙飛びこむ水の音

 

この句で、古池という静寂の空間に染み渡る水の音に、

風見鶏の回転音はよく似ている。

 

はたちよしこさんのあの詩と同じ気持ちを抱かせる。

 

だれもいないのに

ぶらんこが ゆれている

こどもたちが

かえってしまったあと

やっと

風に じゅんばんがきて

 

キットカット式交信機械

キットカットの個包装の裏面に、

メッセージを書ける欄が付いてるのに気づいた。

 

「きっと勝つ」のもじりとほどよいサイズで

差し入れに使われることを、

前提にした機能なのだろう。

 

同様に、万物にメッセージ欄を貼り付ければ

全てのものは誰かへの手紙になる。

そこに一筆書いて風の郵便配達夫に渡せば

得体のしれぬモノからお返事が返ってくるかもしれない。

 

病棟にて

ここ一ヶ月、さほどオオゴトではないものの

ちょっと肉体的苦痛を伴う手術を何度か行った。

 

命に関わるようなものでは全くないものの、

苦痛といくつかのリスクは伴う施術だったので

生来の不安を感じやすい性質も重なり、心は暗く沈みこんでいた。

実に不幸な年越しだなあと。

 

数時間はかかるかもしれないということで、

施術は一般診療時間外である午後から始まる。

 

そんな時間帯であるから他の患者さんたちも大きな傷病を抱えた方が多い。

大半の方は自立歩行できない状態だ。

 

体中に管を通し呼吸の苦しそうな人。

全身火傷で顔の一部も失った女性。

 

本当に不幸を嘆いていいのはこの方たちだと思った。

僕のような症状はまだまだ「幸運」なほうなのだなあと。

 

人の感じる禍福。その基準は相対的なものだ。

強い患部の痛みを感じている間は

普段抱えている精神的な苦悩などは

実に些細で無意味なものだったと痛感(文字通り)する。

 

しかし恥ずかしいかな、

術後徐々に痛みがひいていくと

それとバトンタッチするかのように

再びかつての心の痛みが胸を覆い始める。

人の業なのか僕の業なのか。

 

劇的な心境変化とまではいかないにせよ

あの感覚はぜひ覚えておきたい。

 

今感じる不幸はより強い苦しみの中ではほとんど無意味な些事なのだ。

 

 

自由にフィールドを歩行する言語

 

 

僕は、周辺の意向に過剰に同調しようとするアデプトチャイルド的傾向がある。これはじつに大きな障害だ。

 

人様の機嫌を損ねることを極端に恐れて、主義主張の異なる人たちの群の中に立つと、口をつぐむしかなくなる。そのルールでいくと、人の数が増えるほど使える語彙は減少する。

 

唇は震え唇音たる「ぱ」も「ま」も失い、もはや「あ」くらいしか発声できない。これでは詠嘆の嗚呼くらいしか感情表現ができない。勇者の名前を入力することはできるが。

 

「ゆうしゃ あああああ よ ことばをうしない しんでしまうとはなさけない」

 

自由に思ったことを記述もしくは表現できる場として、このブログを使ってみようかと思う。僕の言語機能の回復を期待して。